開放

筆一本と絵の具があればつくれちゃうって気づいたから、とても自由である。道具についてはあれこれ言わず、ボロであるほど面白い。
写真というものからフリーになったかんじ。

2015年1月

もう少し軟らかく

愛用フィルム,Arista EDU Ultra (実はFomaPan) で屋外撮影したものもチバに適合させるために軟調化。
チバの場合,ここまでの実績では,再現できるネガの濃度は高々0.8まで。と言うことはγ=0.27程度となるが,そこまでとなるとPOTAの類が必要か。
まずはR09 (Rodinal)で試行錯誤(まだ途中)。
↓センシトメトリー結果

AristaEDU_Ultra.sensitometry

薬品が手に入りにくく

現像主薬のフェニドンを注文しようとネットで調べて愕然とした。
品切ればかり。森本化成のはなんとか見つかったが、異常に高い。NNCはもう写真薬品販売から撤退してしまってたではないか。

海外の写真用品屋では相変わらず販売されているのだが、いざ注文しようとしたらGround ships onlyとなっている。
そもそも僅かなフェニドンごときを海外から高い送料を払って買うのもバカバカしい。

次は当然試薬屋を当たるわけだが、普段そういうお付き合いが無いので、個人に売ってくれるところはすぐに分からず、仕方ないから普通の薬局をネットで探して電話で数件問い合わせてみた。口頭では間違いもあるので、メールで問い合わせてくれとのことで、今返事待ちしてるところ。

面倒になるのぉ。フェニドンなんて現像主薬の基本中の基本物質だから、この現状だと自家処方してる日本人が激減したってことかな。
ダメなら、他のモノで条件を振ってテストすればなんとかなると思うからまぁいいか。

7月4日:薬局経由で、関東化学(特級 25g 3600円)と和光ケミカル(一級 100g 8675円)ありましたぁ。

量子コンピュータで

量子コンピュータが実現しつつあるという驚きの話を聞いたょ。
ウィリアム・パウンドストーンが書いた<過去に撮られ、そして未来に撮られるであろう全ての写真画像を取り揃えているデーモンの話>が,実現する日がだんだん近づいているのかも。

たしか俺のインチキ計算では,10×10ピクセル程度の白黒2値の画像だったら,少し前の最速スーパーコンピュータ「京」を使って,人の一生をかけてプロットし続ければ,全ての画像を生成することが出来るというものだった。
しかし,10×10と言えばfaviconレベル。そんな豆粒画像では,全くお話にならないのは言うまでもない。

それが,量子コンピュータなら実用になるレベルの大きな画像で,過去の全ての写真と,未来に撮られるであろうあらゆる写真が生成できる可能性があるんじゃないのかと言うことだ。

あと,100年くらいすると,絵柄を作るために写真を撮ることが理論的にはムダな行為となる日が来るのかもしれない。そうなれば、ますます職人技のプリント技術が大事になるということか。なんだかおもしろい未来だねぇ。

立体の認識

半年前にバラックでつくっていたステレオビュアーを写真展のために本格的に作り直した。
半日かけて作ったそれは,小学生の夏休みの工作のような出来になった。まるで進化していない。バラックIIといった感じ。

さて,このおもちゃを使ってまずはステレオペアではない,普通の日常風景を眺めてみる。
目と目の間隔は10インチに広がる。面白いことに遠近感が異常に強調される代わりにモノが小さく見える。
まるで自分がガリバーになったかのようだ。ちょうど本城直季さんのミニチュア写真を見ているような感じがしないでもない。

次に,この状態で輻輳角を変えてみる(寄り目,離れ目)。輻輳角を大きく(寄り目)にするとさらにモノは小さく見える。輻輳角がモノの大きさの判断にかなり大きく寄与していることが予想される結果だ。

3Dコンソーシアムの「3DC安全ガイドライン」(飛び出す絵や動画が人体に悪影響を及ぼさないようなコンテンツを作るための指針)を見てみると,人間が立体を認識する要素は以下の14があると述べられている。

(1)水晶体の焦点調節 (2)両目の輻輳 (3)両眼視差 (4)単眼運動視差 (5)物の大小 (6)物の高低 (7)物の重なり (8)きめの粗密 (9)形状 (10)明暗 (11)コントラスト (12)彩度 (13)色相 (14)鮮明度(ボケ具合というのはおそらくこの鮮明度に入るのだろう)。

この14項目の順番がどういう根拠なのか明記されていないのだが,およそ立体を認識する要因の強さの順に並んでいるのではないかと予想する。この中で特に(1)と(2)が網膜に写る画像情報そのものとは無関係なのが興味深い。
(1)の水晶体の焦点調整というのは,近くを見るときは水晶体を厚くすべく筋肉が緊張し,遠くを見るときは水晶体を薄くするために筋肉が弛緩するという,まさに筋肉の張りを監視するセンサーが前後を判断するということだろう。
片目をつむってもだいたいの位置関係を把握できるのは,無意識に働くこのセンサーのお陰なのかもれない。

(2)の両目の輻輳角は,寄り目の度合い,つまりこれも目の筋肉の緊張度合いを感じるセンサーが示す感覚の一つだ。ステレオペアで立体視をするとき経験することだが,平行法と交差法において,同じサイズのステレオペアでも,平行法で見た画像は大きくおおらかに感じられるのに対し,交差法で見た画像はミニチュア的に見える。
平行法で見るときは,目は左右それぞれのステレオペアの間隔に合わせて広がるので,輻輳角はかなり小さくなる。普段の生活で輻輳角が小さくなるののは,遠くにあるものを見つめる時だから,脳は経験的な類推により,そのステレオペアの写真は遠くにあるものだと判断をする。遠くにあるにも関わらずそれが与えられたサイズに見えるのなら,それは大きいものだと判断するに違いない。交差法で見るときはそれと逆のことが起こり,小さいものだと判断するのだろう。

普通のステレオビュアーではビュアーの間隔,輻輳角を変えることが出来ないので,撮影したステレオペアの左右の間隔(場合によっては上下,および回転角)を調整して(アラインメント)最適の飛び出し量になるように設定するもよう。

手作りのステレオビュアーの場合,輻輳角の調整は自由に出来るので,写真側のアライメントは固定して,ビュアーの調整でステレオ位置を調整出来るのだ。が,多くの人に見てもらう場合はいちいちビュアーを調整するのが面倒なので,やはり写真側でアライメントを調整すべきかと思っている。でかい写真をそのままの状態で左右に並べてステレオで見せるのはなかなか難しいのだと言うことが分かった。

それにしても,撮影のときのステレオベース(左右のレンズの間隔)も大事なパラメータであるのに,撮影後の鑑賞時にさえ,様々なパラメータがあり,なかなか最適に見せるのは難しい。両眼視差によるステレオペアの立体写真は非常にシンプルで,それゆえ長い歴史を持ち奥は深い。カチッとはまったときの立体感とリアルさは,まだまだ最新の3D動画技術に負けないのではないかと俺は思っているのだ。
もっと勉強しないとイカン。

混ざった色,混ざった音

前に色について駄文を書いたのだが,人間は例えば単色の緑色も,黄色と水色が混ざって生じた緑色も区別出来ないと書いた。
となると,世の中に溢れる緑色には純粋な緑の波長を示す緑色と,いくつかの色が混ざり合って出来ている緑があって,それがごチャまぜになって俺達の目に飛び込んでいるということだ。
まず印刷物の緑はおそらく全てが混ぜ合わせて出来た色。植物の緑はおそらく純粋に緑の波長を反射してその色に見えているもよう。
昔使った分光光度計なんていう道具では溶液のスペクトルしか測ったことはなかったけれど,世の中のあらゆるものにカメラのファインダーや露出計のように測定器を向けて,被写体のスペクトルを測ることができたら面白いと思った。
世の中には既にそういう道具もあると思われるが,デジカメにどうでもいいクダラナイ機能を付けるのは止めにして分光光度計でもつけてみたら,少なくとも俺は買ってやるのだぉ。

さて,単色と混ざった色の区別はつかないのかも知れないが,多くの画家たちが描いた作品は人間の目が混色によっていかに美しさを感じるかを示した好例なのかもしれない。物理的な混色とはまた違うのだろうが,位置をずらしながらそれに加えて色を微妙に変化させることにより,ある程度の距離をとってみればそれが予想を超えた結果を生む。人間の感覚の妙とそれを熟知した業師たちの仕事は素晴らしいものだ。

面白いことにスペクトル分離が出来る感覚器,「耳」でも同じようなことが無いわけでは無いもよう。物理的なうなりの類はもちろんだが,ひとつの音だと面白くもなんともない音が2つ3つと加わるごとに何倍もの美しさをもって聞こえるというのは経験的にあるように思う。
例えば打楽器。シンバルひとつだけ叩いてみてもちっともいい音がしない。が,しかしベースドラムと合わせたり,スネアドラムと合わせて叩いた瞬間「ハッ」とするような艶っぽい音に変わる気がするのだ。
あるドラマー曰く,「そういうことが考えられて作られているのか,だとしたら凄いとしか言い様がない」。真実はどうか分からないが,人間の感覚は全く興味深いものだ。
音に関する錯覚=イリュージョンも色々あって面白く,そういうことを知り尽くして作られた業師たちの作品を聞いてみたい。

写真に色は大事なモノだ。モノクロ写真だってどの色を感じてどんな濃度で現れるかが問題だから重要だ。
しかし人が感じる「色」ほどいい加減なものは無いようにも思う。〇〇のデジカメの色はどうだとか××フィルムの発色はどうだこうだとか言うようだが,2つのものを並べて比較するならともかく,記憶に頼った色なんてかなりいい加減なものに違いない。

2つを並べて見たとしても,人の目が感じる色は相対的な違いを感じるだけだから,今俺がみている青と隣の誰かが見ている青はそれぞれの脳の中で全く別な色に感じているものかも知れない。俺が赤と呼んでいる色をとなりのあの子は青と認識して生きているかも知れないのに,それを見分ける術はたぶん無いし,そう
だとしてもお互いに何も困ることがない。

おまけに人の場合は,色を感じる錐体細胞と言うものが,普通赤,緑,青に感じる3種類あるらしいが,そうでない人(決して少なくないらしい)はこれが1個だったり,5個だったりするもよう。普通の人でもその錐体細胞の分光特性に個人差があると言う。ということはますます人が一人一人感じる色は絶対的
なものでなく,全く比較のしようがないということではないか。

さらに人の目のセンサーは,純粋な波長の色と2つ以上の色が混ざって感じる色との区別が付かないというのも興味深い。波長が550nmの緑も,黄と青を混ぜて得られた光も同じように緑の単色に見えてしまう。こういうインチキに騙されてしまう感覚は匂いや味などでもあるような気がするが,それを積極的に使うということは普通ない。しかし視覚の場合はカラー写真やビデオ画像でいつも積極的にその性質を使って騙されているのが色というものなのだ。

ちなみに音に関して言えば,耳は周波数の異なる成分をしっかり分離して聞くことが出来る優秀なセンサーである。このように周波数成分を感知できる器官
(フーリエ変換装置?)と目が感じる色のように分離できない器官があるのは何故なのだろう。もしかすると目は形を見極める仕事の方が重要であるから,空間
周波数の分離(荒い,細かい)に力を使って,色の分離の方まで手が回らなかったのだろうか。

人間の感覚器官の中でその支配量が最も大きいとされる視覚。だからこそ人はその情報を正しいと思ってしまいがちなのだろうが,ちょっと考えただけでも上のようなことがあり,少なくとも色に関してはかなりいい加減である。光源の色温度が違うところでは,オートホワイトバランスみたいなこともやってくれるの
で,ますますアタナと俺が見ている色は違っていそうである。

しかしフィルムの色やデジカメの色について,その色がどうだこうだという意見が人によってそれほど違わないのは,既成概念に引っ張られているのかもしれない。

右と左

右と左の問題は考えれば考えるほど分からなくなる。古今東西の偉人たちが考えて色々悩んだ模様。
そこで俺が悩んでもそれ以上のモノは出てきやしないのだが。
写真を撮る人にとっては右と左の話は身近だ。2眼レフなどで覗けば左右が逆。ネガをプリントする時,ぼーっとしてると右左を間違える。フィルムをスキャンするときも注意しないと左右が逆になることあり。逆に取り込んでしまったら画像ソフトで左右を反転するのだが,とあるソフトでは「鏡像反転」と書いてあって,何故に鏡は左右のみを反転して上下は反転しないか?という古典的問題に出会ってしまって悩む。

ちょっと考えてみれば,幸いなことに写真は本質的に左右を逆に写すものではない。左右も上下も前後も逆に写す。これは被写体とレンズとその像の位置関係を考えてみれば明らかだ。全てが逆になるということはもう一度全てを逆にすれば完全にもとに復元することができる。これが真を写すと呼ばれる所以か。
全てを逆にして復元するとは,例えばリバーサルフィルムの鑑賞を考えてみれば,まずフィルムを被写体の方向に向ける(前後の反転)。次にそのままでは上下が逆さまだから上下に反転する。そしてそのままでは左右が逆だから表裏をひっくり返して左右反転。こうすることによって被写体とリバーサルの画像を重ねあわせることができる。

ところが初期の写真はそうではなかったもよう。銀板写真(ダゲレオタイプ)は,銀板が透明ではないから光の当たった方からしか見れず,最後の左右反転操作が出来ない。だから得られた画像は左右逆の鏡像を鑑賞することになる。記録材料が透過でないという理由だけで,なぜに左右だけが逆転せざるを得ないか。本来等価であるはずの3次元のx,y,z軸のうち,何故に上下と前後は復元できるのに左右だけが特別なのか?と考えると夜も眠れなくなる人が出てくるのではあるまいか。