写真に色は大事なモノだ。モノクロ写真だってどの色を感じてどんな濃度で現れるかが問題だから重要だ。
しかし人が感じる「色」ほどいい加減なものは無いようにも思う。〇〇のデジカメの色はどうだとか××フィルムの発色はどうだこうだとか言うようだが,2つのものを並べて比較するならともかく,記憶に頼った色なんてかなりいい加減なものに違いない。

2つを並べて見たとしても,人の目が感じる色は相対的な違いを感じるだけだから,今俺がみている青と隣の誰かが見ている青はそれぞれの脳の中で全く別な色に感じているものかも知れない。俺が赤と呼んでいる色をとなりのあの子は青と認識して生きているかも知れないのに,それを見分ける術はたぶん無いし,そう
だとしてもお互いに何も困ることがない。

おまけに人の場合は,色を感じる錐体細胞と言うものが,普通赤,緑,青に感じる3種類あるらしいが,そうでない人(決して少なくないらしい)はこれが1個だったり,5個だったりするもよう。普通の人でもその錐体細胞の分光特性に個人差があると言う。ということはますます人が一人一人感じる色は絶対的
なものでなく,全く比較のしようがないということではないか。

さらに人の目のセンサーは,純粋な波長の色と2つ以上の色が混ざって感じる色との区別が付かないというのも興味深い。波長が550nmの緑も,黄と青を混ぜて得られた光も同じように緑の単色に見えてしまう。こういうインチキに騙されてしまう感覚は匂いや味などでもあるような気がするが,それを積極的に使うということは普通ない。しかし視覚の場合はカラー写真やビデオ画像でいつも積極的にその性質を使って騙されているのが色というものなのだ。

ちなみに音に関して言えば,耳は周波数の異なる成分をしっかり分離して聞くことが出来る優秀なセンサーである。このように周波数成分を感知できる器官
(フーリエ変換装置?)と目が感じる色のように分離できない器官があるのは何故なのだろう。もしかすると目は形を見極める仕事の方が重要であるから,空間
周波数の分離(荒い,細かい)に力を使って,色の分離の方まで手が回らなかったのだろうか。

人間の感覚器官の中でその支配量が最も大きいとされる視覚。だからこそ人はその情報を正しいと思ってしまいがちなのだろうが,ちょっと考えただけでも上のようなことがあり,少なくとも色に関してはかなりいい加減である。光源の色温度が違うところでは,オートホワイトバランスみたいなこともやってくれるの
で,ますますアタナと俺が見ている色は違っていそうである。

しかしフィルムの色やデジカメの色について,その色がどうだこうだという意見が人によってそれほど違わないのは,既成概念に引っ張られているのかもしれない。

右と左

右と左の問題は考えれば考えるほど分からなくなる。古今東西の偉人たちが考えて色々悩んだ模様。
そこで俺が悩んでもそれ以上のモノは出てきやしないのだが。
写真を撮る人にとっては右と左の話は身近だ。2眼レフなどで覗けば左右が逆。ネガをプリントする時,ぼーっとしてると右左を間違える。フィルムをスキャンするときも注意しないと左右が逆になることあり。逆に取り込んでしまったら画像ソフトで左右を反転するのだが,とあるソフトでは「鏡像反転」と書いてあって,何故に鏡は左右のみを反転して上下は反転しないか?という古典的問題に出会ってしまって悩む。

ちょっと考えてみれば,幸いなことに写真は本質的に左右を逆に写すものではない。左右も上下も前後も逆に写す。これは被写体とレンズとその像の位置関係を考えてみれば明らかだ。全てが逆になるということはもう一度全てを逆にすれば完全にもとに復元することができる。これが真を写すと呼ばれる所以か。
全てを逆にして復元するとは,例えばリバーサルフィルムの鑑賞を考えてみれば,まずフィルムを被写体の方向に向ける(前後の反転)。次にそのままでは上下が逆さまだから上下に反転する。そしてそのままでは左右が逆だから表裏をひっくり返して左右反転。こうすることによって被写体とリバーサルの画像を重ねあわせることができる。

ところが初期の写真はそうではなかったもよう。銀板写真(ダゲレオタイプ)は,銀板が透明ではないから光の当たった方からしか見れず,最後の左右反転操作が出来ない。だから得られた画像は左右逆の鏡像を鑑賞することになる。記録材料が透過でないという理由だけで,なぜに左右だけが逆転せざるを得ないか。本来等価であるはずの3次元のx,y,z軸のうち,何故に上下と前後は復元できるのに左右だけが特別なのか?と考えると夜も眠れなくなる人が出てくるのではあるまいか。